【院長略歴】
| ・1993年 |
新潟大学 歯学部 卒業 |
| ・1993年 |
大阪府 医療法人 小室会 小室歯科勤務 天王寺ターミナル診療所 医長を経て |
| ・2000年 |
西尾歯科 開業 |
| ・2004年 |
医療法人 西尾会に医療法人化 |
小学生のころ
私の父はいわゆるモーレツサラリーマンでした。夜帰宅する時間もおそく、日曜日は昼過ぎまで寝ていました。
「あそぼうよー。起きてよー。」と父を起こそうとしましたが、起きてもらえずさびしい思いをしたこともありました。
昼すぎになってやっと起きてきたら、ゴルフの練習です。私はよくゴルフの練習をしている父のそばによっては「ちかづくな。」といわれたことを覚えています。
夕方になって約1時間、父と弟の3人でキャッチボールをすることが休日の日課になっていました。私と弟は父が来るまで2人で練習し、父が来るとキャッチャーになってもらい、コントロールを競いました。「ナイスボール!」といってもらうことがとてもうれしかったなぁ。
母や祖母から「お父さんは忙しいから」「仕事で疲れているから」という言葉をよくきかされ、私自身は納得していたつもりでしたが、友人から「お父さんと○○へ行ってきた」という話をきくと、うらやましくおもっていました。
ある日、父の休日出勤にいっしょについていくことがありました。休日なので、父の会社の裏口から入り、階段で10階まで二人であるいたことを鮮明に覚えています。
当時の私にとって、10階まで階段を上ることは、けっこうきつかったからです。その後、仕事をする父の姿をまのあたりにし、「仕事って大変なんだな」と心から感じました。
それ以来、私は休日父にあそんでもらうよりも、草野球チームに入り、練習に明け暮れました。私はその生活がとても楽しく、やりがいがありました。小学校3年生の時には、ジュニアの部で4番を打つようになりました。父に活躍したこと、試合に勝ったこと、負けたことなど話を聞いてもらうだけで満足でした。父もうれしそうにきいてくれていました。
父が仕事する姿をみたことは、私にとって大きな転機でした。草野球チームにやりがいをみつけることができ、先輩、後輩、同期との関わり方、チームプレーをまなびました。そしてみんなで目標に向かい、それを達成することの喜びも得ることができ、その後の人生に大いに役立ったと思います。
中学時代
私は、中学受験で教育大学付属中学を抽選落ちし、中高一貫の私立の中学に行くことになりました。私は非常にくやしい思いをし、「よし、高校受験でリベンジだ」と塾に通い、成績も上がってきました。
そんな時、母から「塾をやめてテニス部に入りなさい」と半ば強引にテニス部に入れられました。私は塾の先生から「西尾、最近がんばってるな」といわれ、さらにやる気になっていた時だけに、正直反発を感じました。
そして成績も下がり、テニス部でも補欠という中途半端な状態になりましたが、心のどこかで母を困らせたかったのだと思います。
それが自分にかえってくることを、その後痛感するのですが。
高校時代
結局エスカレーター式で高校に上がり、テニス部もなんとなく続けていました。成績はそれでも全学年の1割にははいっていたので、担任の先生からも親からも何も言われませんでした。
しかし、自分の中ではモヤモヤしたものがあり、何かに打ち込みたい、と感じていました。そんな時、友達からバンドをやろうと声をかけられ、私はテニス部をやめて軽音楽部にはいりました。パートはドラムです。初めてドラムをやりましたが、とても面白く夢中になりました。家でも通学電車でも授業中でも練習しました。一生懸命練習して、ライブや文化祭にでた時、大きな拍手を受ける喜びを感じていました。声援を受けたり、女子から「握手してください」といわれたりで、有頂天になっていました。
当然成績は下がり、担任の先生や親から注意されるようになりましたが、私は『大丈夫、やればすぐに取り返せる』と思っていました。
3年生になり、皆予備校の現役コースにいくようになりました。私はその予備校に入る試験に落ちてしまい、2回目で何とか入ることができました。この時初めて『取り返せないところまできている』と実感するのでした。
大学への進路
私の父がモーレツサラリーマンで忙しくて遊んでもらえなかったことがどこかで影響していたのか、父と同じ道は進むまい、と思っていました。将来子供ともあそんでやりたい、と思っていました。また、バンドをやったことからか、どこかでかっこいい職業にあこがれていました。
私は開業できてかっこいい、という漠然としたイメージから、歯学部を選びました。しかし、そんな安易な選択と、『塾をやめさせた母を困らせたい』という想いがきっかけで落ちてしまった成績は、そう簡単には取り返せず、私は浪人して新潟大学にいくことになりました。この時以来、『人に左右されて自分を見失うことは絶対にしないでおこう』と心に誓いました。
また、受験を通じて感じたことは、ここ一番での弱さです。プレッシャーに負けてしまう自分を変えなければ、と強く思いました。
大学時代
新潟大学に入学し一人暮らしがはじまりました。限られた仕送りでやりくりすること、そうじ、せんたく、家事など自分でやらなければだれもやってくれないことなど、当たり前のことですが、今までやってこなかった事が出来るようになったことは、私にとって大きな収穫でした。
また、関西人以外の人々と接することが出来たことは、私の視野を広げてくれました。「大阪の常識は世間の非常識」など、テレビなどではよく見ていましたが、確かにそんな部分もあるかもしれないと感じました。私の知る限り、関西人同士が接するような調子で話すと、東北の人は確実に引きます。
さて、大学生といえばアルバイトです。私もバイトにあけくれました。家庭教師を数件やるだけでは足りず、夜はホテルのラウンジのウエイターをはじめました。シェイカーだって振れるようになったんですよ。
ここで私は大きな出会いをします。ホテルのバーとラウンジの支配人との出会いです。支配人は私たちバイトの名前や出身地などはもちろん、すぐに覚えてくれましたが、お客様のことにはおどろくほど詳しかったのです。
例えば、
「あのお客様はまちあわせだ。50代のひげをはやしたスーツ姿の人がいらしたら、そこにお通ししろ」
「○○さんはカクテルのレシピを少し変えなければならない」
「△△さんとXXさんは同じ会社だが、あまり一緒にいたがらない。テーブルは離れたところにご案内しろ」
など。
また、誕生日のお祝いはもちろん、結婚記念日にも忘れずひとことメッセージをそえる。本当にすごい人で、あこがれました。
そして私も少しでも近づきたいと思い、お客様の名前を覚えることからはじめました。そして「○○様、こんばんは」といえるようになると、「お、うれしいね、覚えてくれてるんだ」とよろこばれ、私は調子にのってお客様の好きなおつまみ、カクテル、会社名、仕事内容など、どんどん覚えていきました。覚えるのが楽しくなっていました。
ただ、あまりおしつけがましくてもイヤがられることもり、本当に勉強になりました。支配人からも気に入られたようで、バイトの私に真剣に色々と指導してくれました。「ここに就職しろ」といわれたときは、本当にうれしかったなぁ。
この支配人との出会いは、私にサービスマインドを教えてくれ、そのよろこびを知ることができ、私の人生にとって、とても大切な出来事になりました。
開業に向けて
私は歯科医院をもっと便利に快適にできないか真剣に考えました。そして、3つの問題点を感じたのです。
まず第1に歯科医院は土日が休みです。そのため最も忙しく体が資本のビジネスマン一家の大黒柱のお父さんが治療をうけるのは大変です。
私は土日も夜まで診療することで、この問題を解決しようと思いました。時間のない人こそ健康を手に入れなければなりません。そしてそんな方に治療だけでなく、予防の大切さをしってほしいと強く思いました。
第2に接客がよくない。そのため患者様は治療以外でもイヤな思いをすることがあります。治療自体ストレスなのですからせめて治療以外は快適にすごしてほしい。接客で治療のストレスを軽くしたいと思いました。私はスタッフ研修に力を入れ、私がアルバイトの時、人生に影響をうける出会いをしたように、スタッフにも人間として成長できるような場を提供したい。そしてそのことが患者様の快適さにつながると感じました。
第3に、説明が足りない。そのため患者様は治療がうまくいっても笑顔をみせてくれないことがあります。納得されていないんだと思います。私は患者様の口の中が今どうなっているのか、そして今、われわれは何をしているのか、最後はどうなるのか、などできるだけわかりやすく説明しようと思いました。写真やツールを使って笑顔で納得していただけることを目標にしました。
こうして、私が感じた問題を解決する歯科医院をつくろうと、2000年11月に開院したのです。

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